
静岡県は長年、「模型の世界首都」を標榜してきた。木製模型の時代から続くこの地で、今も国内のプラモデル出荷量の8割以上を占める。その中心にいるのが「三大模型メーカー」と呼ばれる老舗の一角、ハセガワだ。社長を務める長谷川勝人さん(66)は、デザイン講師や芸大出身の経歴を持つ異色のリーダーである。
ハセガワの創業は1941年(昭和16年)。前年に静岡大火で営んでいた菓子店を全焼した祖父・長谷川勝呂氏が、木製模型の製造に乗り出したのが始まりだった。当時は戦時中。国民学校でグライダー教材を手掛けたことで会社は急成長したが、1945年の静岡大空襲で再び全焼。それでも戦後、機械を導入して再起を図る。そして1961年(昭和36年)、ついにプラモデルに参入。国産プラモデルの黎明期を支えた。
長谷川社長は、その転機の年に生まれた。「祖父は私にとって大きな存在でした」と振り返る。幼い頃から祖父と過ごす時間が多く、会社の新工場建設中には連れられて視察にも行った。しかし、1969年(昭和44年)、祖父は東名高速道路の事故で急逝。9歳だった長谷川さんは、「あの日、声をかけなかったことを今でも悔やむ」と語る。悲しみのあまり3日間泣き続け、周囲が心配するほどのショックだったという。
中学からは東京の寮制学校へ。厳しい上下関係に反発し、グレた時期もあった。高校2年でバイク事故に遭い数カ月の入院。ベッドの上で初めて「自分の人生」を考えた。「好きで得意なことといえば絵を描くことぐらい」。退院後、静岡の高校に転校し美術部に入る。浪人を覚悟で東京芸大を目指したが、合格はならず。桑沢デザイン研究所に進んだものの、芸大への思いを断ち切れず、再受験して1980年(昭和55年)に合格した。
芸大では周りのレベルの高さに圧倒され、胸腺腫瘍の手術も経験。術後、執刀医に打ち明けた迷いに対し、「自分も挫折から別の道を見つけた」と励まされた。その言葉がきっかけで、金属立体という分野に出会う。「やりたかったのはこれだ」と、初めて勉強の重要性を実感。卒業制作では賞を獲り、その後は専門学校講師やデザイナーとして順調なキャリアを重ねた。
転機は38歳の時。ハセガワの専務だった叔父から「お前が継がないで誰が継ぐんだ」と声がかかる。「祖父が出会った会社」という思いが強く、1年悩んだ末に39歳で入社。社員、取締役、専務を経て、11年前に社長に就任した。「もうけないと会社が存続できない」という重圧に、再び学びの日々が始まった。
社長就任から3年後、社員に「イノベーションを起こそう」と訴えた。市場は縮小傾向にあり、「飛行機のハセガワ」という看板に縛られてはいられない。顧客目線への変革を掲げ、フィギュアなど新分野への挑戦を決断。ところが動き出して1年でコロナ禍に突入する。巣籠もり需要が追い風となり、売上は1.5倍に。改革は一気に加速した。
静岡の模型産業は、木工家具や建具の伝統から発展してきた。長谷川さんは「模型作りは楽しく、学びも多い」と話す。自ら学校の模型教室を支援し、子供たちが夢中になる姿を見て「こうした機会をもっと広げたい」と目標を掲げる。昨年からはサウジアラビアへの輸出も始めた。「この会社を、日本中、そして世界に『モノづくりの楽しさ』を伝える会社にしたい」。祖父が遺した“模型の灯”は、今も静岡から世界へと広がり続けている。